釣り針の歴史

旧石器時代の貝製釣り針から現代の金属針まで

旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト
旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト
旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト
旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト
旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト
旧石器時代の貝製釣り針、縄文時代の骨角製結合式釣り針、古代の金属製釣り針の製作風景を左から順に描いた歴史イラスト

【釣り針の製作技術の進化を描いた想像復元図】 石器で貝殻を削って釣り針を作る旧石器時代、骨角製の部品を植物繊維の紐で結合する縄文時代、金属を加工して釣り針を作る時代へ。素材と製作技術の変遷を、3つの制作風景で表現しています。

釣り針の歴史は、今から数万年前にまでさかのぼります。金属加工の技術がなかった時代、人々は貝殻や動物の骨、角、牙などを加工し、魚を捕らえるための釣り針を作っていました。沖縄県のサキタリ洞遺跡からは、約2万3,000年前の貝製釣り針が発見されており、現在の釣り針にも通じる湾曲した形状が、すでに旧石器時代に存在していたことがわかっています。

やがて金属加工技術の発達とともに釣り針の素材や製法も進化し、江戸時代には釣り針作りを専門とする職人たちが登場します。土佐の名工・広瀬丹吉が作った「丹吉針」、そして土佐から播州へと伝わった製造技術は、日本の釣り針産業の発展につながっていきました。

このページでは、サキタリ洞の貝製釣り針や鹿児島の草野貝塚から出土した骨角製釣り針をはじめ、広瀬丹吉と小寺彦兵衛の足跡、焼き入れ技術の発展、現代の精密な金属製フックに至るまで、釣り針の進化と、それを支えてきた人々の知恵と技術の歴史をたどります。

取材・編集:wiredFish編集部

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釣り針の誕生と古代の漁労文化

人類はいつから釣り針を使って魚を捕るようになったのでしょうか。 その起源を正確に特定することはできませんが、考古学的な発見によって、少なくとも2万年以上前には、現在の釣り針にも通じる湾曲した釣り針が作られていたことが明らかになっています。

金属加工の技術が生まれるはるか以前、人々は貝殻や動物の骨、角、牙など、身近にある硬い素材を利用して釣り針を製作していました。 これらの素材を削り、磨き、魚の口に掛かる形に仕上げるには、細かな加工技術が必要でした。

古代の釣り針には、現在の釣り針とよく似た湾曲したものだけでなく、カエシを備えたものや、軸と針先を別々に作って組み合わせたものなど、さまざまな形状が見られます。 こうした違いからは、人々が利用できる素材や漁場の環境に応じて、魚を捕らえるための工夫を重ねていたことがうかがえます。

日本列島でも、旧石器時代の沖縄から縄文時代の各地の貝塚に至るまで、釣り針に関する貴重な考古資料が発見されています。 特に、沖縄県のサキタリ洞遺跡から出土した約2万3,000年前の貝製釣り針は、世界最古級の釣り針として注目されています。

小さな釣り針は、古代の人々がどのような素材を使い、どのような技術で魚を捕らえていたのかを知るための重要な手がかりです。 まずは、旧石器時代の沖縄で作られた貝製釣り針から、その歴史をたどってみましょう。

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約2万3,000年前:サキタリ洞の貝製釣り針

今から約2万3,000年前。まだ金属製の道具が存在しなかった旧石器時代、沖縄ではすでに驚くほど精巧な釣り針が作られていました。

沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から発見されたのは、海産の巻貝「ギンタカハマ」の硬い貝殻を加工した小さな釣り針です。2016年に発表された研究によって、約2万3,000年前のものと報告され、世界最古級の釣り針として大きな注目を集めました。

ギンタカハマの殻の底の平らな部分を割り取り、削ったり磨いたりして、湾曲した釣り針に仕上げています。出土した釣り針は最大長約14mmという小さなもので、破損しているものの、湾曲した形状と鋭く加工された針先を確認することができます。

沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。
沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。
沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。
沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。
沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。
沖縄県サキタリ洞遺跡の貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左に材料となったギンタカハマの貝殻と殻底、右に湾曲した釣り針の完成品と未完成品の破片を描いている。

約2万3,000年前の沖縄・サキタリ洞遺跡から出土した貝製釣り針をイメージした復元イラスト。左は材料となったギンタカハマの貝殻、右は完成品と未完成品の破片を表現したもの。

特に興味深いのは、完成した釣り針の破片だけでなく、製作途中の未完成品も発見されていることです。さらに、同じ地層からは表面が滑らかになった砂岩も見つかっており、釣り針を磨くための道具だった可能性が指摘されています。 これは約2万3,000年前の人々が、貝殻を素材に選び、形を整え、針先を鋭く仕上げる技術を持っていたことを示す貴重な証拠なのです。

サキタリ洞からは釣り針のほかにも、貝殻を加工した道具や装飾品、モクズガニやカワニナなどの食料残滓が発見されています。また、ウナギやアイゴ、ブダイなどの魚の骨も確認されており、当時の人々が周辺の河川や海の資源を利用していたことがうかがえます。ただし、出土した釣り針で具体的にどのような魚を釣っていたのかまでは、明らかになっていません。

わずか14mmほどの小さな釣り針が、2万年以上もの時を超えて残されていた。その形は、現代の釣り針にも通じるものです。サキタリ洞の発見は、魚の口に針を掛けて捕らえるという技術が、私たちの想像をはるかに超える古い歴史を持っていることを教えてくれます。

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縄文時代:骨角製釣り針の発達

旧石器時代の沖縄で貝製の釣り針が使われていたころから、長い年月が流れた縄文時代。日本列島では、海や川の恵みを利用する漁労文化が発達し、各地の貝塚からさまざまな釣り針が発見されています。

縄文時代の釣り針で特に注目されるのが、動物の骨や角、牙などを加工した「骨角製釣り針」です。主にシカの角やイノシシの犬歯などが利用され、地域によっては動物の骨も材料に使われていました。 金属のように曲げて成形することができないため、素材を削り、磨きながら、湾曲した形状や鋭い針先を作り上げていました。

釣り針の形状も一様ではありません。針先にカエシを持たないものや、魚が外れにくいようにカエシを設けたもの、釣り糸を結び付ける部分に工夫を凝らしたものなど、この時代にすでに、さまざまな種類の針が作られるようになっていました。

一本の素材から作る釣り針と、部品を組み合わせる釣り針

縄文時代の人々は、小魚だけでなく、マダイやマグロ、サメなどの大型魚も捕らえていました。福島県いわき市の寺脇貝塚からは、こうした大型魚の骨とともに、大型の結合式釣り針が出土しています。すべての魚を釣り針で捕らえたとは限りませんが、当時すでに大型魚を対象とする漁労が行われていたことがわかります。

縄文時代の釣り針は、その構造によって単式釣り針と結合式釣り針に分けられます。

単式釣り針

単式釣り針は、一本の骨や鹿角などから、軸・曲がり・針先を一体に削り出したものです。現在の一般的な釣り針と同じように、針全体が一つの素材で作られています。

結合式釣り針

結合式釣り針は、軸となる部分と針先を持つ部分を別々に製作し、組み合わせて使う釣り針で、軸長が約5〜16cmのものが出土しています。単式釣り針に比べると大型のものが多く、縄文時代後期から晩期の遺跡にも見られます。先ほど紹介した寺脇貝塚からは、軸と針先側の部品を曲がりの部分で結合する「寺脇型」と呼ばれる大型の釣り針が出土しています。

縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。
縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。
縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。
縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。
縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。
縄文時代の骨角製結合式(寺脇型)釣り針の復元イラスト。左は植物繊維の紐で接合部を固定した状態、右は紐を取り除いて軸と針先側の部品の結合構造を示したもの。

【縄文時代の結合式(寺脇型)釣り針をイメージした想像復元図】 軸と針先側の部品を別々に作り、紐で固定する構造を表現しています。左は結束した状態、右は紐を取り除いた状態。

結合式釣り針が作られた理由の一つとして、破損した際の修復のしやすさが考えらます。骨や鹿角から作られた釣り針は、大きな力が加わった際に、曲がりの部分などが折れやすく、針先や曲がりが折れると針全体が使えなくなります。しかし、結合式にすることで、破損した部分だけを交換して再利用できるようになります。

これが結合式釣り針が考案された理由の一つではないでしょうか。このように考えると、結合式釣り針には単式釣り針よりも大型のものが多いという傾向も納得できます。大型魚の強い引きによって何度も釣り針を折られた縄文人たちが、その経験から知恵を絞り、破損しても修復できる結合式釣り針を考え出したのかもしれません。

では、別々に作った軸と針先は、どのように固定していたのでしょうか。

結合式釣り針では、軸と針先側の部品を接合するために、溝や切り欠きを設けるなどの工夫が見られます。こうした加工を利用して部品同士を組み合わせ、植物(カラムシ、アカソ、フジ、シナノキ、アサなど)の繊維で作った細い糸を巻き付けて固定していたと考えられます。

島根県の宍道湖と中海の間に位置する西川津遺跡から出土した弥生時代の結合式釣り針には、接合部に乳白色の接着剤が残り、細い糸で縛った痕跡も確認されています。これは、結束と接着剤を組み合わせる固定方法が、古代の釣り針作りに存在したことを示す貴重な資料です。

当時は、漆、天然アスファルト、動物の皮や骨などから作る膠(にかわ)を接着剤として利用する技術がありましたが、西川津遺跡の釣り針に何が使われていたかは特定されていません。

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【歴史コラム】草野貝塚の釣り針 〜縄文人が残した製作の痕跡〜

縄文時代の草野貝塚周辺を想像復元した風景。手前では石器で骨製釣り針を製作し、背景では鹿児島湾の岩礁から魚を釣る人々が描かれている。
【縄文時代の草野貝塚周辺をイメージした想像復元図】 鹿児島湾を望む海辺で骨製の釣り針を作る人々と、岩礁から釣りをする人々を描いた。

鹿児島市下福元町にある草野貝塚(くさのかいづか)からは、縄文時代後期(約4,500~3,300年前)の骨製釣り針が出土しています。材料に使われていたのは、イノシシの牙やシカの骨。金属製の釣り針が登場するはるか以前から、この地域の人々はこれらの素材を加工し、魚を捕らえる道具を作っていました。

特に注目したいのは、完成した釣り針だけでなく、製作途中の未完成品も出土していることです。加工段階の異なる出土品が残されているため、素材から釣り針が作られていく過程を知ることができます。

骨や牙から釣り針を作るには、素材を削り、曲がりの形を整え、針先を尖らせる加工が必要です。草野貝塚の未完成品は、縄文人がこうした作業を重ねながら釣り針を製作していたことを伝える、貴重な考古資料です。

数千年前の鹿児島にも、自分で釣り針を作り、海で魚を捕らえていた人々がいた。完成品だけでは見えてこない、道具作りの途中の姿まで残されていることが、草野貝塚の大きな魅力です。

草野貝塚は、現在の谷山港からほど近い場所にあります。1948年(昭和23年)ごろ、松林を開墾していた際に発見されました。現在は住宅地となっている一帯ですが、かつては台地の斜面に貝塚が形成されており、当時の人々の暮らしを伝えるさまざまな遺物が発見されています。

※ 出土した骨製釣り針の製品・未製品は鹿児島市の指定文化財です。鹿児島市立ふるさと考古歴史館「骨製釣針の製品・未製品」では、出土品の写真とともに紹介されています。

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金属製釣り針の登場と発展

貝殻や動物の骨、鹿角などから作られていた釣り針は、金属加工技術の発達によって大きな転換期を迎えます。 ここでは、古代の銅・青銅製釣り針から鉄製釣り針への展開、さらに日本の職人による釣り針作りと、西洋における製造技術の工業化までをたどります。

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銅・青銅製釣り針の登場

銅・青銅製の釣り針には、骨角製の釣り針とは異なる、次のような特徴があります。

  • 曲げ加工ができる:骨や鹿角は削って形を作りますが、銅や青銅は叩いたり曲げたりして形を整えることができます。
  • 細い釣り針を作りやすい:金属は細く加工しても一定の強度を保てるため、素材や加工方法によっては、骨角製より細い軸の釣り針を作ることができます。
  • 変形しても折れずに曲がる場合がある:銅や一部の青銅は、力が加わると折れる前に変形する性質があります。ただし、硬さや折れやすさは合金の組成や加工状態によって異なります。

金属製釣り針の歴史は古く、古代エジプトでは紀元前2千年紀には銅や青銅などの金属を使った釣り針が作られていました。

ニューヨークのメトロポリタン美術館には、紀元前1300~1080年ごろの古代エジプトの釣り針が収蔵されています。材質は青銅や銅合金で、長さ約1.2cmの小型のものから、約9.8cmの大型のものまで確認できます。

日本でも弥生時代には青銅製の釣り針が使われていました。静岡県浜松市の伊場遺跡からは、弥生時代の青銅製釣り針が出土しています。日本列島でも、従来の骨角製釣り針に加えて、金属を利用した漁具が使われるようになっていたことを示す資料です。

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鉄製釣り針の普及と発展

鉄製釣り針には、銅・青銅製の釣り針と比べて、次のような特徴があります。

  • 細くても高い強度を確保できる:適切な材料と加工方法を選べば、銅や青銅よりも細い軸で大きな力に耐える釣り針を作ることができます。
  • 鋭い針先を維持しやすい:硬く仕上げた鋼製の釣り針は、針先が摩耗したり変形したりしにくく、鋭さを保ちやすくなります。
  • 熱処理によって硬さと粘り強さを調整できる:炭素を含む鋼は、焼き入れや焼き戻しなどの熱処理によって、針先の硬さと、魚の引きに耐える粘り強さのバランスを調整できます。

釣り針の材料として、さらに重要な役割を果たすようになったのが鉄です。

鉄は加工方法や炭素の含有量によって性質が変わります。特に炭素を含む鋼(はがね)は、適切な熱処理を施すことで、硬さと粘り強さのバランスを調整できます。

釣り針にとって重要なのは、単に硬いことではありません。針先は魚の口に刺さる鋭さと硬さが必要ですが、魚が掛かったときには、軸や曲がりの部分にも大きな力が加わります。硬すぎれば折れやすく、軟らかすぎれば伸びたり曲がったりしてしまいます。

鉄や鋼を加工する技術が発達したことで、釣り針の太さや形状だけでなく、材料そのものの性質を調整することも可能になりました。

日本では、弥生時代の遺跡から鉄製釣り針が出土しています。福岡市の三苫永浦遺跡や西新町遺跡では、鉄製釣り針をはじめとする漁労具が発見されており、農工具などとともに漁具にも鉄が利用されていたことがわかります。

ただし、弥生時代の鉄製釣り針が、現代の鋼製釣り針と同じような熱処理技術で作られていたという意味ではありません。鉄の加工技術は長い時間をかけて発展し、後の釣り針製造技術につながっていきます。

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日本の釣り針製造技術の発展

日本では、古くから漁業や釣りが行われ、地域ごとにさまざまな釣り針が作られてきました。江戸時代になると、釣り針を専門に製作する職人や商人も現れ、釣り針作りは一つの産業として発展していきます。

土佐の名工・広瀬丹吉と丹吉針

江戸時代の釣り針製造を語るうえで欠かせない人物が、土佐国(現在の高知県)の広瀬丹吉(ひろせ たんきち)です。

初代広瀬丹吉は、1781年(天明元年)、高知城下の菜園場町で釣り針店を創業しました。丹吉が製作した鋼鉄製の釣り針は「丹吉針」として知られ、後の釣り針製造技術にも影響を与えました。

丹吉針の技術は土佐だけにとどまらず、播磨国(現在の兵庫県南部)にも伝えられます。こうした技術の伝播が、後に日本有数の釣り針産地となる播州地方の発展につながりました。

播州釣針の誕生と発展

現在の兵庫県加東市周辺で発展した播州釣針(ばんしゅうつりばり)の歴史は、江戸時代末期にさかのぼります。

播州地方には、江戸時代末期に京都や土佐などから釣り針製造技術が伝えられました。その中でも、土佐の丹吉針の製法を学び、播州での釣り針製造を大きく発展させた人物として知られるのが、小寺彦兵衛(こでら ひこべえ)です。

彦兵衛は1851年(嘉永4年)に土佐から郷里へ戻り、釣り針の製造を始めたと伝えられています。習得した技術を弟子や同業者にも広く伝えたことで、釣り針製造は播磨や丹波などの周辺地域へ広がっていきました。

当時の釣り針作りでは、鉄材を細く加工し、必要な長さに切断して針先を尖らせ、ヤスリでカエシを作り、針の形に曲げるといった作業が行われていました。さらに、焼き入れや焼き戻しによって針の硬さを調整する工程も重要でした。

こうして、農家の副業として始まった釣り針作りが、地域を支える産業へと発展していきます。

明治末期になると、播州釣針の製造にも機械化の波が押し寄せます。1909年(明治42年)には、針のカエシを作る「藤原式イケ起機」が発明され、1人1日1万本以上の製造が可能になりました。さらに1912年(明治45年)には、針先を加工する尖頭機や針を曲げる形曲機が開発され、製造能力は1人1日3万本に達したと記録されています。

それまで職人が一本ずつ手作業で作っていた釣り針は、こうした技術革新によって大量生産される工業製品へと変わっていきました。

釣り針の形を整える職人技術と、鋼の性質を調整する熱処理技術。 この二つを磨き上げてきたことが、日本の釣り針製造の大きな特徴です。

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西洋の釣り針製造技術と工業化

日本で釣り針職人の技術が発展していたころ、西洋でも釣り針の製造技術は大きく変化していました。特に産業革命以降のイギリスでは、針金加工や金属製品の製造技術が発達し、釣り針も工業製品として大量に作られるようになります。

イギリス・レディッチの針製造業

イギリス中部のレディッチ(Redditch)は、縫い針と釣り針の製造で知られる町です。17世紀には針の製造が行われており、産業革命期から19世紀にかけて、世界的な針製造業の中心地へと成長し、19世紀には専門の製造業者が活動していました。針金加工や製造工程の分業化、機械化が進み、釣り針も工業的に生産されるようになりました。

現在、レディッチのフォージ・ミル針博物館(Forge Mill Needle Museum)には、当時の針製造設備とともに、釣り針や釣具に関する展示品、製造記録などが保存されています。

職人の手作業から工業製品へ

釣り針は小さな道具ですが、その製造には多くの工程があります。金属線の切断、針先の加工、カエシの形成、曲げ加工、熱処理、表面仕上げなど、それぞれの工程に技術が必要です。

手作業による製造では、針の形状や仕上がりに職人の技量が大きく関わります。一方、製造工程の機械化が進むと、同じ形状の釣り針を大量に作り、製品ごとのばらつきを小さくすることが可能になりました。

ただし、工業化によって職人の技術がすぐに不要になったわけではありません。釣り針の形状を決めることや、材料に適した加工方法を見極めることなどには、引き続き経験と技術が求められました。

こうして、日本で発展した職人による釣り針作りと、西洋で進んだ工業的な製造技術は、それぞれの地域で発展を重ねながら、現代の釣り針製造へとつながっていきます。

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参考文献

1.Fujita et al.(2016)「Advanced maritime adaptation in the western Pacific coastal region extends back to 35,000–30,000 years before present」

沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から発見された旧石器時代の貝製釣り針などを報告した学術論文。約2万3,000年前の釣り針の年代や材料、製作技術を確認するために参照しました。

● サキタリ洞から約2万3,000年前の貝製釣り針が発見されたこと
● 巻貝の殻を加工した釣り針であること
● 旧石器時代の沖縄で海や河川の資源が利用されていたこと

参考:論文全文(PMC)

2.渡辺誠(1966)「縄文文化時代における釣針の研究」

縄文時代の釣り針について、形態や構造、地域的な特徴などを考察した考古学研究。骨角製釣り針の種類や、単式釣り針と結合式釣り針の違いを理解するための基礎資料として参照しました。

● 縄文時代の釣り針の形態的な特徴
● 単式釣り針と結合式釣り針の構造上の違い
● 結合式釣り針の成立や大型化に関する考古学的な考察

参考:J-STAGE「縄文文化時代における釣針の研究」

3.いわきデジタルミュージアム「寺脇貝塚出土品(結合式釣り針)」

福島県いわき市の寺脇貝塚から出土した、縄文時代の結合式釣り針を紹介する資料。寺脇型釣り針の構造や、遺跡から出土した魚骨について確認するために参照しました。

● 軸と針先側の部品を別々に作り、曲がりの部分で結合する寺脇型の構造
● 寺脇貝塚が縄文時代後期から晩期の遺跡であること
● マダイ、スズキ、マグロ、サメなどの魚骨が出土していること

参考:いわきデジタルミュージアム「寺脇貝塚出土品(結合式釣り針)」

4.島根県「九州との交流示す釣り針 松江市・西川津遺跡」

島根県松江市の西川津遺跡から出土した弥生時代の結合式釣り針を紹介する資料。釣り針の接合部に残された接着剤や、糸による結束の痕跡について確認するために参照しました。

● 軸に鹿角、針先側にイノシシの牙が使われていること
● 接合部に乳白色の接着剤が残っていること
● 細い糸で部品を縛った痕跡が認められること
● 出土した釣り針が長さ約14cmの大型品であること

参考:島根県公開資料(PDF)

5.鹿児島市立ふるさと考古歴史館「骨製釣針の製品・未製品」

鹿児島市の草野貝塚から出土した骨製釣り針の完成品と未完成品を紹介する資料。縄文時代の鹿児島で行われていた釣り針作りや、製作途中の出土品について確認するために参照しました。

● 草野貝塚から骨製釣り針が出土していること
● 完成品だけでなく未完成品も発見されていること
● 出土品が鹿児島市の指定文化財となっていること

参考:鹿児島市立ふるさと考古歴史館「骨製釣針の製品・未製品」

6.メトロポリタン美術館「Fish hook」

アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館が収蔵する古代エジプトの金属製釣り針の資料。古代エジプトで銅や青銅などの金属が釣り針に利用されていたことを確認するために参照しました。

● 紀元前1300~1080年ごろの釣り針が現存すること
● 材質が青銅または銅合金とされていること
● 長さ9.8cmの釣り針が収蔵されていること

参考:The Metropolitan Museum of Art「Fish hook」

7.文化遺産オンライン「伊場遺跡出土青銅製釣針」

静岡県浜松市の伊場遺跡から出土した、弥生時代の青銅製釣り針を紹介する文化財資料。日本列島で金属製釣り針が使用されていたことを示す出土例として参照しました。

● 伊場遺跡から弥生時代の青銅製釣り針が出土していること
● 出土品が浜松市博物館に収蔵されていること

参考:文化遺産オンライン「伊場遺跡出土青銅製釣針」

8.福岡市博物館「海と遺跡 -弥生時代-」

弥生時代の福岡地域における海との関わりや漁労具を紹介した企画展示資料。鉄製釣り針の出土例と、漁具への鉄の利用について確認するために参照しました。

● 三苫永浦遺跡から鉄製釣り針が出土していること
● 西新町遺跡からも鉄製釣り針などの漁労具が出土していること
● 弥生時代に漁労具の鉄器化が進んでいたこと

参考:福岡市博物館「海と遺跡 -弥生時代-」

9.高知市「高知市歴史散歩」

高知市が公開している郷土史資料。土佐釣針の歴史と、江戸時代の釣り針職人・広瀬丹吉について確認するために参照しました。

● 土佐が古くから釣り針作りで知られていたこと
● 初代広瀬丹吉が1781年に菜園場町で釣り針店を構えたと伝えられること
● 丹吉釣針が土佐の釣り針製造の歴史を代表する存在であること

参考:高知市「高知市歴史散歩」

10.兵庫県釣針協同組合「播州地方における釣針のはじまり」

播州釣針の成立と、江戸時代末期における製造技術の伝播を解説した資料。小寺彦兵衛の足跡や、土佐から播州へ伝わった釣り針製造技術について確認するために参照しました。

● 小寺彦兵衛が1851年に土佐から帰郷し、釣り針製造を始めたと伝えられること
● 播州への技術伝播には複数の経路があったとされること
● 針先加工、カエシの形成、曲げ加工、焼き入れなどの製造工程
● 彦兵衛が技術を弟子や同業者に伝えたこと

参考:兵庫県釣針協同組合「播州地方における釣針のはじまり」

11.兵庫県釣針協同組合「明治・大正・昭和前期の釣針製造」

播州釣針の機械化と大量生産への移行を解説した資料。明治末期から大正期にかけての製造機械の発明と、生産能力の向上について確認するために参照しました。

● 1909年に藤原式イケ起機が発明されたこと
● 1912年に釣針用尖頭機や形曲機が開発されたこと
● 機械化によって釣り針の生産能力が大幅に向上したこと

参考:兵庫県釣針協同組合「明治・大正・昭和前期の釣針製造」

12.Forge Mill Needle Museum「Forge Mill」「Archives Catalogue」

イギリス・レディッチにある針製造業の歴史博物館が公開する資料。イギリスにおける針製造業の発展や、釣り針製造に関する歴史的な記録を確認するために参照しました。

● レディッチが針製造業の中心地として発展したこと
● ヴィクトリア朝時代の針製造設備や工程が保存・紹介されていること
● 19世紀の釣り針製造に関する文書や製品カタログが収蔵されていること

参考:Forge Mill Needle Museum
参考:Forge Mill Archives Catalogue

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